株式会社 走り井餅本家
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大津そろばん
大津そろばん
▲大津そろばん
【御用のそろばん】
そろばんはヨーロッパで原型が作られ、中国に伝わり、明の時代に日本の長崎に伝来して広まったとされています。
慶長十七年(1612)、時の長崎奉行・長谷川左兵衛藤広について長崎に出向き、明の人よりそろばんの見本と使用法を授かって帰郷したその人が、大津追分の片岡庄兵衛でした。
彼は工夫研究を重ね、中国式そろばんの形状、組み方、材質等を日本人向きに改良。 ここに日本式の大津そろばん(当時は中国も日本も上玉二ツ、下が五ツ玉)が誕生しました。以来片岡家は代々「御用のそろばん屋」として名を馳せ、そろばん製造の家元となり、そろばん販売の特権を認められました。  
ロマそろばん 中国そろばん 日本の初期 現代
左:大津そろばん(明治初年作)中:大津そろばん(宝永二年作)右:中國そろばん(京都 そろばんや所蔵)
▲左:大津そろばん(明治初年作)
 中:大津そろばん(宝永二年作)
 右:中國そろばん(京都 そろばんや所蔵)
 出典「日本のそろばん」
中国・日本とも初期のそろばんは上玉二ツ、下玉五ツ。日本では明治十二年(1879)以降、上玉が一ツになり、昭和十三年(1938)以降、下が四ツ玉の現在の方式となりました。
▲中国・日本とも初期のそろばんは上玉二ツ、下玉五ツ。日本では明治十二年(1879)以降、上玉が一ツになり、昭和十三年(1938)以降、下が四ツ玉の現在の方式となりました。
【そろばんといえば大津】
 片岡家のほか、玉づくりの名人・小島庄兵衛、木屋安兵衛、昆布屋定治郎ら、多くのそろばん師が技を競って優れたそろばんを生みだし、「そろばんといえば大津」といわれたもの。追分・大谷あたりには、江戸三百年間にわたって多くの製造業者、職人、関係業者が集結し、全国の需要をほとんど一手に引き受ける状態でした。
 日本で最初のそろばん塾は、江戸初期に京都の河原町二条付近において、毛利重能(しげよし)が角倉家の倉庫を借りて開いたとされます。大津追分は、珠算教育のメッカとなった京の中心地に近く、当時の「よみ・書き・そろばん」教育の波にも乗って、大津そろばんは隆盛を極めたのでした。
【門外不出の秘法を駆使】
 大津そろばんは、一見しただけで違いがわかり、しかも他には真似のできない二大特徴を誇っていました。一つは、ヒゴが極めて細く優美な表情。二つ目は本指(ホンザシ)と称する組み方で、釘も鋲も接着剤を一切使わず、貧乏ゆすりもしない堅固さ。これは門外不出の秘法とされ、非常に複雑で独特の技によるものでした。そしてこの二大特徴が、日本のそろばんを優れたものにしたといえます。
中国のそろばん
▲中国のそろばん
【いまは幻の大津そろばん】
しかし明治を迎え、鉄道や京津線の敷設に伴い、そろばん業者のもっとも密集していた地域が立ち退きにあうなどの不運もありました。明治末頃、いまの追分陸橋の東に、小島庄兵衛のそろばん屋がわずかに名残をとどめていたとか。
その後、そろばん製造の機械化とともに手工業の大津そろばんは姿を消しました。現在のそろばんは、播州そろばん(兵庫県小野市)が日本中の八割を占め、残りが雲州そろばん(島根県出雲横田)。ちなみにホンザシの技法は播州に伝わりましたが、これができるのは播州でも名人ただ一人といわれています
街道土産の縫い針 〜大津針〜
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