▲逢坂山に庵を結び隠棲した琵琶の名手蝉丸を祀る蝉丸神社。芸能、音曲の神として人々の信仰を集めています。
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古歌に名高い逢坂の関。逢坂山に設けられた関所・逢坂関は平安時代、伊勢の鈴鹿関、美濃の不破関とともに三関と称された地。東海道、中山道、西近江路、北国街道からの人とものが集中するわが国最大の交通の要として、また京の玄関口として知られてきました。
時代をさかのぼれば、六六七年に天智天皇が都を近江大津京に移されました。 |
当時、東アジアでは新羅が唐と組んで勢力をのばし、日本は新羅に滅ぼされた百済に援軍して「白村江の戦い」(663)に出兵するも新羅・唐の連合軍に敗れ、今度は日本がいつ攻められるかもしれない状況。
こうした緊張関係のもと、九州や瀬戸内に敵軍侵攻に備えた古代の山城を多く築き、そして最後の砦を逢坂山とするために、大津遷都を行ったともいわれています。天智天皇といえば、大化改新を成功させた中大兄皇子その人。日本で初めて「漏刻」と呼ばれる水時計を作り、その日が六月十日の時の記念日となっています。
「逢坂山」の地名は、その名に「逢ふ」を響かせて数々の歌に詠まれ、人々の想像力をかき立てます。また「追分」の地名は、「追ひ・分く」という峠の意味。東海道と支流街道の分岐点として交通の要衝であったことがうかがえます。
逢坂越えの追分あたりは、いまでこそ国道一号線を車で通過すれば、あっという間。しかし江戸時代には、両脇に山が迫る道幅の狭い街道をはさんで両側にぎっしりと家々が建ち並び、谷間を埋めていました。街道沿いには茶店や土産物を売る店が並び、旅人や牛馬の往来がひっきりなし。現在からは想像もできない賑わいぶりで、東海道随一であったということです。 |