▲奥に牛車が通っており、その通り道だけ一段掘り下げられているのが分かります。この頃にはすでに通行の安全を図るため、歩道と車道が区別されていたようです。 |
 |
|
鉄道が引かれるまで琵琶湖は、北海、北陸からの海産物や米等を京都へ運ぶ重要な水運でした。それら多くの物資は、大津港から馬車、牛車により逢坂山、九条山を越えて京都へ運ばれて行きました。しかしながら逢坂山は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所でした。そこで、文化2年(1805)京都の心学者脇坂義堂が一万両の工費を投じて工事にあたったもので、これによって牛車などによる荷物の運搬が円滑に進むようになったのです。
|