株式会社 走り井餅本家
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東海道大名物 走り井餅 商品紹介
牛車を助けた峠道の車石
民衆文化 大津絵
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牛車を助けた峠道の車石
かつて逢坂山の峠道に敷かれていた車石。石に車輪を通すための溝を掘り、それを敷き連ねて荷車が峠を越える助けとしました。西洋のレールと逆の発想がおもしろい。
▲かつて逢坂山の峠道に敷かれていた車石。石に車輪を通すための溝を掘り、それを敷き連ねて荷車が峠を越える助けとしました。西洋のレールと逆の発想がおもしろい。
【江戸時代のレール】
江戸時代、逢坂山の峠道には「車石」というものが敷かれていました。花崗岩に車の轍(車輪を通すための溝)を掘り、二列に並べた車石が、大津から京都の三条にかけての約3里(12キロ)に敷き連ねられ、荷車が峠を越える手助けとなりました。
奥に牛車が通っており、その通り道だけ一段掘り下げられているのが分かります。この頃にはすでに通行の安全を図るため、歩道と車道が区別されていたようです。
▲奥に牛車が通っており、その通り道だけ一段掘り下げられているのが分かります。この頃にはすでに通行の安全を図るため、歩道と車道が区別されていたようです。
【滋賀から京都へ】
鉄道が引かれるまで琵琶湖は、北海、北陸からの海産物や米等を京都へ運ぶ重要な水運でした。それら多くの物資は、大津港から馬車、牛車により逢坂山、九条山を越えて京都へ運ばれて行きました。しかしながら逢坂山は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所でした。そこで、文化2年(1805)京都の心学者脇坂義堂が一万両の工費を投じて工事にあたったもので、これによって牛車などによる荷物の運搬が円滑に進むようになったのです。
【工夫を凝らした一方通行】
道は、歩道と車道に分けられていて、歩道は車道よりも高くしてあり、通行の安全を図るため、また、車の通行の邪魔にならない様に配慮してあったようです。また、車石は単線の為、午前は京都行き、午後は大津行きと、時間による一方通行になっていました。
民衆文化 大津絵
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